平田智剛のブログ

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IoS―マイコンで切り開く社会問題解決への第一歩(Internet of Society)

概要

社会問題とは社会の欠陥や矛盾から生じる諸問題のことである。
それ故、社会が複雑になり、欠陥や矛盾それ自体の構造も複雑になるほど、社会問題は必然的に複雑化していくと考えられる。事実、今日では明らかに社会学では解決できない領域にまで突入している問題もある。本稿ではこうした問題を再び社会学の領域に持ち込むための一助として、今日目覚ましい発展を遂げる情報通信産業が寄与できる可能性を、探っていく。

 

第1章: 社会学の限界と危険性

本来、社会問題を明らかにし、解決に寄与するのは社会学の役割である。

ブリタニカ国際大百科事典・小項目辞典(以下、単に「参考辞書」という)では、社会学

人間およびそれを取巻く社会事象を研究対象とする社会科の一分野。

と説明している。概要で示した社会問題の定義

社会の欠陥や矛盾から生じる諸問題

も参考辞書によるものである。

 

社会学が本当に社会問題を明らかにし、解決への道しるべを世の中に示すだけの力を持っているとすれば、理想と反対に社会学の営みが問題の解決を困難にしたり、ひた隠しにし続けることへつながる恐れについても否定できないのではないだろうか。第1章ではこの疑問について議論していくものとする。

1-1. 仮説検証型の穴―社会学の「泡」仮説

日本においては、社会学を専攻する学生が大学や大学院で指導を受ける際には、仮説検証型による論理展開を指導されているのが通例となっているようである[1][2][3][4]。

実際、[1][2][3][4]は各大学が社会学部(あるいは文学部社会学科など)の学生向けに(卒業)論文(等)の書き方について説明している資料であるが、どの資料でも仮説検証型による論理展開を指示しているか、その詳細を述べている。

 

仮説検証型の論理について知るために、参考辞書による「仮説検証」の解説を引用する。

調査の方法論における基本的な考え方。あらかじめ仮説を立てて,その仮説を調査で実証していこうというもの。一方,憶測せずに事実をありのままに調査していこうという立場事実検証という。仮説検証は検証者の好みイデオロギーが調査に影響を与える可能性があり,一方,事実検証は調査の効率が悪く,時には事後解釈も成立するので信憑性に欠けるなど,それぞれ欠点がある。

参考辞書では仮説検証以外の方法論として事実検証を挙げているが、社会科学系の論文の書き方として仮説検証型と比較される方法論は「仮説生成型」である[5]。

仮説検証型では先に仮説があり、この仮説の正当性(あるいは不当性)を吟味するための道具として調査が実施される。対して仮説生成型では、まず調査を行い、それを説明する道具として仮説が立てられる。

 

仮説検証型には、参考辞書の指摘の通り「検証者の主観が反映されうる」という欠点があることはよく知られているが、仮説検証型の主観性は検証者だけの問題ではなく、方法論そのものに内在しているという恐れはあまり指摘されない。
つまり、仮に検証者が真に客観的な調査や論文執筆に成功したとしても、微小な主観性が論文の形式そのものに依然残るのである。誤解を恐れずに言えば、「社会学の論文を仮説検証型で書くこと」自体に、微小な主観性が宿るというのである。本稿ではこの仮説を「社会学の『泡』仮説」と呼ぶ。

 

この「微小な主観性」が不規則に点在するのであればよい。大局的にみれば誤差同然の問題だからである。しかし、この「微小な主観性」が一か所に集まり、大局的にみても無視できない大きさの「主観の泡」を形成したとき、社会ガクはイデオロギーと化す。

1-2. 社会学からの「評判」の数理モデル

社会学が女性や男性―その他任意の『属性』(「20代女性」や「障害を抱える65歳以上の低所得者」など、具体的/抽象的を問わない)に対してそれぞれどのような評価をしているのか」は、数字で表すことが理論上可能である。

「現在とみなせるある時刻 t(十分連続とみなせるものとする)における日本中の人々」を集めた人間空間 H(t)を考えよう。 H(t)は離散位相空間(最も「強い」位相空間。元(ここでは人間)一人ひとりを開集合とみなす)であって、これと位相同型な仮想的空間「社会学空間 S(t)」を考える。

また、これとは別に位相空間 P_{ropaty}(i)=(\{水,油\},  \{φ, \{水\}, \{油\}, \{水,油\}\})と、 Sから P_{ropaty}(i)への写像 g(i, S)を定義する。ここで i自然数とする。

ここで関数 p_{aper\_cnt}(t)を、時刻 tにおいて日本の社会学会(等)で公開されている論文の枚数を返すものと定義する。この関数は明らかに単射でない(異なるtに対して同じ自然数を返却しうる)ために逆関数を持ちえないが、それに近い関数p^{-1}(i)として、日本で i番目の社会学論文が受理された時刻を返すものを定義することができる。

 H(t)から社会学空間 S(t)への同相写像  f(t,~): H(t)→S(t) を考えよう。

但し簡単に考えるため、 f(t,H)=Sとする。(すなわち、人間空間の像と社会学空間はピッタリと重なる)

「女性」を集めた全体集合 W(t) H(t)の部分集合であるから、 f(t,~)による女性の像 f(t,W)を考えることができる。このときf(t,W) \subset S(t)である。

同様のことが、男性の全体集合 M(t)に対してもいえる。

今(=時刻 tにおいて)、1通の社会学の論文が受理されたとしよう。
その内容は「女性は可哀相な被害者(であって、男性は穢れた加害者)だ」というものであったとする。

この場合、 g(p_{aper\_cnt}(t), W(t))=水 g(p_{aper\_cnt}(t), M(t))=油 

とする。つまり写像 g(i,~)は、配慮されるべき存在として取り出された H(t)の部分集合に対しては水を、他者への配慮を心掛けるべき存在として取り出された部分集合に対しては油を対応させる役割を持つ。

さて、時刻 t現在、女性と男性がどれだけ「可哀相な奴」(あるいは「悪い奴」)であるかについては、例えば写像 g(i, W(p^{-1}(i)))に対してiによる積分のような操作を考えれば求められるように思える。つまり、
 \frac{1}{p_{aper\_cnt(t)}}\sum_{i=1}^{p_{aper\_cnt(t)}}g(i, W(p^{-1}(i)))
を考える。

しかしこの方法ではあまり確度の高い議論は難しいであろう。なぜなら社会学の論文では「20代女性」、「30代男性」のように、複数の条件を組み合わせて議論している場合が多いからだ。位相の元「女性」と「20代女性」は別物だ。「20代女性」の評価がどう変わろうとも、「女性」の評価は影響を受けない。

この問題を解決するには、「女性の元」を一つ一つ評価していけばよい。

女性の総数をc_{nt}(W(t))と書くとすると、
 \frac{1}{c_{nt}(W(t))}\frac{1}{p_{aper\_cnt(t)}}\sum_{w \in W(t)}\sum_{i=1}^{p_{aper\_cnt(t)}}g(i, w)

を計算すれば、a水+b油といった格好で値が求められるはずなのである。

bに対してaが大きいほど「女性は良い奴(可哀相な奴)だ」という漠然とした、しかし厳密で定量的な議論ができるはずである。

一方、男性に対しても、

  \frac{1}{c_{nt}(M(t))}\frac{1}{p_{aper\_cnt(t)}}\sum_{m \in M(t)}\sum_{i=1}^{p_{aper\_cnt(t)}}g(i, m)

を計算することで、「男性は良い奴(可哀相な奴)なのか」について漠然とした議論が展開できる。 

また、両者比較することで、女性と男性ではどちらがより「良い奴」であるかについても白黒つけることができる。

 

 ―と、いうのは机上の空論である。

そもそも日本中の社会学の論文をすべて集めて、各論文において被害者は誰か、加害者は誰かを特定することなど時間と費用がいくらあっても足りないだろう。

そこでやむなく、めぼしい論文を30個でも100個でも1000個でも探してきて、論文を無作為抽出する形となるのが関の山だ。

実際の計算を前提とするのであれば、最初から位相空間論を持ち出して必要以上に難しく考える必要もないのだ。そして、条件付き確率を考慮したうえで点推定を行う式を立てれば、きっと上に示したような数式に近づく。

難しく書いたが、要は「国民一人一人といった極めて具体的な『属性』から、性別といった極めて抽象的な『属性』まで、任意の『属性』に対して社会学がどのような評価を下しているか、理論上は計算が可能」であるということをいいたいのだ。厳密で科学的な数理モデル化を求められたとき、頭の悪い筆者には、写像だのトポロジーだのと難しそうな言葉を使って説明するしかなかった。

1-3. 評判数理モデルを用いて説明する泡仮説

1-2節で提案した数理モデルにて、例えば女性と男性の評判を比較したとしよう。このとき、 理論上は何らかの答え(どうせ「女性が正義で男が悪」)が求められるが、その値が現実(これこそどうやって計算するか、卒論のテーマにしたかったが謎が大きすぎる。)に即しているということを、仮説検証型の議論では約束できない。社会学がいくら「男尊女卑」と言おうとも、実際には「女性差別ばかり解き明かされ、解決されるという意味での女尊男卑」が隠されているのかもしれない。(実際に医大が女子減点をすれば女性差別として大騒ぎなのに、工科系の大学が男子減点(女子加点)するのは特に騒がないようだ。どうせ「昔は女性が差別されていたのだから」...と抜かすのだろう。彼女ら彼らは学生を「女子学生」、「男子学生」という「クラス」でしか見ていないのだ。もっと「Aさん」、「Bくん」という「インスタンス」としてみていれば、昔の女性の不遇を理由に若い男をいじめることなど正当化できないはずなのだ。そもそも、そんなに男の減少(女性の増加)が大事なのなら、自分が社会学教員の席を女子学生に譲ればよい)

したがって、数理モデルの計算値と現実の差分については、次の3つの場合が考えられる。(実際には、各部分部分での場合分けになるかもしれない)

  1. そもそも「現実社会を計算する」ことが原理的に意味を持たない
  2. 現実社会と社会学(数理モデルの計算値)の間に大きなギャップはない
  3. 現実社会と社会学の間に特筆すべきギャップがある

1であれば本稿の意味は失われる。ただし本稿の自爆に社会学も大きく巻き込まれるだろう。なぜなら、「現実社会が原理的に計算不能なオブジェクト」であるというのなら、そのオブジェクトに関連する事象を研究するというのも意味不明な行動になってしまうからである。少なくとも、その研究にて本質を見出すことは不可能だ。


2であるとするならば、それは本稿の完全な敗北である。
もっとも、その可能性はとても低いと予測するが。
想像してみてほしい。

あなたは今就活で忙しい。研究なんて正直クソクラエだ。
卒論を書かないと単位がもらえないから仕方なく書いているだけだ。…①
ゼミで周りのみんなは女性に寄り添う結論ありきでジェンダー問題を研究している。…②
指導教員も普段から「女性は大変。それに比べて男が如何に恵まれているか。もっと女性を敬うべきだ」と言っている。…③

しかし自分は「どちらかといえば今の日本は男に冷たい」と感じている。…④

この状況下で、あなたなら女性と男性どちらに寄り添う内容で卒論を書くだろうか。

女性に寄り添う内容で書けば、②より、仲間同士で相談しながら、比較的楽に卒論が完成させられそうだ。しかし、心から思っていることとは正反対の論文を書くことになる(④)。まあ研究に思い入れなんかない(①)のだが。

 

一方心から思っている通り、男性に寄り添う内容で書けば、きっと周囲から浮く(②)ことになる。③のことより、怒られる羽目になるかもしれない。いや、それはないにしても、逆に興味深いとして歓迎され、熱心な指導を受けるかもしれない。それはそれで嫌(①)なのである。いずれにせよ、指導教員は自分に対しての時だけ指導方針が変わる、これだけは確実だ(自分だけ内容が180°違うのだから当然だ)。

 

そうなれば、よっぽど女性嫌いでない限りは④の心を殺して女性に寄り添う内容で書くことになりそうだ。

このように、「自分が正しいと思っていること」とは異なる(時には正反対の)内容で論文を書く人だって大勢いるだろう。

 

逆に、似たような状況下で迷わず④の心を優先できるような人は、そもそも学部卒で就職しないのではないだろうか。修士課程、博士課程と進み、やがては専門家として活躍を夢見る。逆に言えば、そういった「何か他人と異なるよほどのこだわり」のある人だけが専門家としてある程度の成功を収めるのであろう。とすると、「他人と異なる」人が社会学を作っていくことになるのだから、やはり「現実社会」とのギャップが大きくなっても不思議ではないだろう。


逆に3であれば、それが本稿にとって一番うれしい。「泡仮説」が正しい唯一の場合だからである。

 

このギャップは、「位相の特定の元(つまり、特定の『属性』)において、その不遇な立場(あるいは不当に得をしている立場)が評価されにくい」ことによっておこる。

つまり、水や油として評価されるべき属性が、社会学では評価されないのだ。

この状況を、「水や油の代わりに泡で評価した」と捉えてみよう。

 

この泡は、主観やイデオロギーや政治の柵などの「大人の都合」によって発生する。

この、社会学の偏りを表す「泡」の行方を追うことで、社会学に見捨てられた人たちに関する考察を施すことが可能となる。

 

ということで、次節やそれ以降では、泡仮説が正しいものとして、議論を展開していくことにする。

 

1-4. 泡の発生要因

泡の発生メカニズムを(ある程度憶測も含めながら)知っておくことは、泡によって社会学から苦しめられている人たちへアプローチすることにつながる。

そこで、1-4節では、憶測を交えつつ、社会学においてどのようなタイミングで泡が発生するのかについて考察していくこととする。

1-4-1. 原理的に取り除けない主観

仮に社会学界隈に柵や利害関係が一切なくなって、誰もが客観性以外の何者にも縛られずに社会学の研究ができるようになったとする。この場合でも泡は発生しうる。

その泡は、1-1節でも触れた通り、仮説検証型における論理展開自体が「主観に依存している」ために発生する「主観の泡」である。まず自由な発想があって、その自由な発想をもとにした観点で、2つ以上の何かを比較する(例えば女性と男性)。この観点における評価が如何に中立公平で客観的であったとしても、「どんな観点で評価するか」の決定に主観が混入したという事実は揺るがない。(『仮に観点の選択も客観的である』と言い張るとしよう。ではその根拠はどこにある?根拠自体が主観的ではないのか。といった問いを立て続けると、どこかで主観の混入を認めることになるだろう。)

もしも仮に、女性の良いところ(男性の悪いところ)が分かりやすく、男性の良いところ(女性の悪いところ)が分かりにくいという傾向があるとすれば、そのことが影響して女性の評価は不当に高くなり、男性は過小評価される。もちろん逆も言える。

1-4-2. 自己言及的問題

1-4-1節でも述べたが、属性によって、弱いところのわかりやすさが異なる可能性がある。もしそのようなことがあるのであれば、弱いところに気が付いてもらいにくい属性をどう支援していくかについても、一つの社会問題となるだろう。 

このプロセスで社会学は、自分自身を断罪する必要に迫られることがある。

つまり、「新たな社会問題を発見したが、その問題の原因は社会学にあった」という場合である。

 

自浄能力の高い組織であれば、こういったとき素直に猛省するのであるが、社会学はそれほど優れた存在ではないようだ。このことは、性犯罪の冤罪について考えればわかることである。可哀相な女性を助けるため、司法の根本である『推定無罪原則』を破壊したのである(不起訴処分・無罪判決や、それに近づきそうな質問が判事から上がると女性差別だと騒ぐ人が本当にいるから怖い)が、このことが無実の男性を刑務所へ送ることへと繋がってしまった。果たして彼のことは可哀相ではないのだろうか。仮に痴漢被害が痴漢冤罪の20倍の頻度で起こると仮定しても、街頭アンケートで「痴漢20回されるのと、無実の罪で警察に1か月拘留されて起訴され有罪判決を受けるのが1回とだったらどっちを選ぶ?」と聞いてみて、意見が半々に分かれるようであれば、「どっちの方が可哀相」という結論はつけられないはずなのである。(そもそも個人の感情に対して他者たちが多数決で決めること自体がナンセンスではあるが)

それなのに、テレビで性犯罪に関する報道はあれど、冤罪に関する報道がみられないのは何故なんだろう。
それはきっと、社会学は男性に対して意図的に泡を送り続けているからだ。

 

1-4-3. 雇用安定・保身上の問題

筆者の令和2年の初笑いは、「女子大学(具体的な大学名は覚えていない)ジェンダー研究が行われている」という事実であった。まあフェミニン(女性)イズム(至上主義)を「男女平等主義」と訳してしまう社会学者の住む日本のことだから仕方がないのかもしれない。それにしても、「男女平等にしろ!男性にも門戸を開け」という声を無視し続ける保守的な大学で、いったいどのような男女平等が研究できるというのか。この時点で結論ありきなことが見え見えなのだ。

 

そもそも無理やり作り出した「女性しかいない」空間で「性別について考える」なんて無理なことではないか。少なくとも男性の意見は反映されないのだから、独りよがりになることは間違いない(これは、もしもそこで男性に寄り添うような研究が行われていても、のことである)。それとも男に性別(ジェンダー)などないといいたいのだろうか。だとしたらとても失礼な話である。

 

こんなこと、わざわざブログで書かなくても誰にでもわかることのはずだ。ではなぜ女子大学はジェンダー研究を行う研究室を置いているのだろう。

それは、女子大の存在意義を考えると簡単に推測することができる。

お茶の水女子大は、体が男性、心が女性という性的マイノリティに対し、門戸を開くことを決定した。発表の時、心身ともに男性という人に対しては門戸を開かないのかと尋ねられた学長は「まだ女性が男性と同じだけの地位を獲得したとは言えない」という趣旨の発言で突っぱねた。

 

これがすべてを物語っているではないか。
女子大は、女性が絶対的な弱者として認識してもらえなくなると、存続できないのである。

 

今までは比較的簡単に見つけてこれた「女性差別」や「女性の不憫な立ち位置」を理由にして、男性排除を正当化してきた女子大であるが、近年では男性が女性のために逆差別を受けるような事態にまで女性の地位が向上し、「女性の不憫な立ち位置」がネタ切れになり始めた。これでは、自分たち女性だけの清潔で安心な大学もいつしか汚い男共に穢されてしまう!

そこで「女性の不憫な立ち位置」を新たに発掘するために、ジェンダー研究という名のもと、「女子大正当化ロジック研究」が開始したのである、と。

 

以上は単に筆者の憶測に過ぎない。しかし、「自分らの保身のために結論ありきで社会学に取り組む人や組織や、はたまた学術機関まで存在したとしてもおかしくない」ということは示せたと思う。

ジェンダーに限らず一般に「属性Aの権利団体」を立ち上げたはいいが、そのAに対する差別が十分減ってきたとき、その権利団体はどう行動をとるのかはわからないのである。素直に解体するかもしれないし、あるいは「Aへの差別」をでっち上げてでも存続を続けるかもしれない。仮に後者が選択されたとしても、世間一般がそれ知り、食い止める術はどこにもないのである。

 

[1]https://www.soc.hit-u.ac.jp/~takujit/tebiki/tebiki2.html

[2]http://www.shitennoji.ac.jp/ibu/images/toshokan/kiyo45-07.pdf

[3]https://www.komazawa-u.ac.jp/gakubu/bun/sociology/images/_pdf/g-kakikata6th.pdf

[4]http://soc.meijigakuin.ac.jp/gakka/doc/guide2015.pdf

[5]https://xn--w8yz0bc56a.com/hypothesis-making-proving/

 

第2章. IoS―通信産業の社会問題に対する新たな役割の考案

第1章では、社会学が必ずしも社会の姿をそのまま反映しているとは限らないということを述べ、「現実社会と社会学の間に十分大きなギャップがある」と仮説を置いた上、その原因として考えられるものをいくつか列挙した。

 

第2章では、この仮説の検証にマイコン機器を役立て得ることを述べていく。

 

2-1. 本稿における自己矛盾とその解決

仮説検証型論法を批判する本稿が仮説検証型で記述されているのは一見すると自己矛盾に見えるが、厳密に解釈すればそうではない(つまり、言い訳の余地はある)。本稿が、社会学の論文を仮説検証型で書くことを危険視するのは「正しい結論が得られないから」ではなく、「社会学の映し出す社会の姿が偏る恐れがあるから」である。

 

極端に単純化された社会のモデルとして、社会が D(A) D(\overline{A})の2つの「観点」の集合で構成されているとしよう。

但しD(A) \cap D(\overline{A})=\phiとする。

 D(A)では属性Aが虐げられ、属性\overline{A}が優位であるとし、

 D(\overline{A})では\overline{A}が虐げられ、Aが優位であるとする。

そして、何らかの理由により、 D(A)社会学的観測が容易である一方、 D(\overline{A})の観測が困難であるという非対称性を持つものとする。

このような場合、社会を全体(=D(A)\cup D(\overline{A}))的にみたとき、Aが優位だろうか。それとも\overline{A}が優位だろうか。この結論を出すには D(A) D(\overline{A})の影響力や、それぞれにおけるA,\overline{A}間の待遇の差を緻密に求める必要がある。

このプロセスを飛ばし、 無作為に選んだ観点で社会全体を評価することを行えば、確率的には D(A)の元が選ばれやすい。

このようにして仮説検証型では、「無作為に選んだ観点で評価したとき \overline{A} A卑だった」という正しい結論を導きつつも、そのような論文が大量に出てくれば、「社会全体が\overline{A}]尊 A卑なのではないか」という、あまりにも早とちりな誤解が、世間一般に形成されてしまうのである。

 

一方、本稿が仮説検証型で議論していくのは、上記のような「社会学 \overline{A}イジメを行う」という危険性を本当に持っていないのかを吟味するためである。社会学が危険な論法にて社会を測ろうとする中、本稿は危険な論法にて社会学を測るのである。社会学の主観の泡が\overline{A}を苦しめたとき、\overline{A}社会学に対する反論を世間に聞いてもらうだけの力を持っているとは限らない。この意味で社会学は「弱い者いじめ」につながるリスクを孕んでいる。一方、本稿の主観の泡が社会学の名誉を傷つけたとき、社会学者たちは本稿に対する反論を提唱することが明らかに可能だ。このブログのコメント欄に書き込んでもよいし、このブログを引用して自身のブログで反論してもよいのだから。この意味で本稿による「弱い者いじめ」が生じることは極めて考えにくいのである。というか、変にリベラルをこじらせて「権利獲得のためには声を挙げなくてはいけない」(対偶:「声を挙げられないのなら権利が損なわれて当然である」)と主張しているのは社会学をはじめとする文系界隈の方である(法学の本にも書いてある場合がある)。このロジックに従えば、仮に本ブログの記事が原因で『反社会学』が圧倒的な支持を受けることとなり、社会学を不当に傷つけたとて、そのことを主張するのは被害者(社会学)の責務となるわけだ。どんなに相手にされなかろうと、一匹狼で騒ぎ続けなさい。社会学が一度自らの残酷なロジックで窮地に追い込まれるのも、自浄作用の成長を促すという意味で決して悪い経験ではないだろう。

 

2-2. 「泡」の観測のための留意事項

仮説「現実社会と社会学の間に十分大きなギャップがある」(泡仮説)を立証するには、社会学の泡を観測すればよい。つまり、社会学が自己言及に陥るのを避ける(1-4-2節)ために必死に無視を続けている仮想的な強者(悪者)が、実際には如何に弱い立場でもありうるかを定量的に示せばよい。

 

しかし、それと同時に、本来の目的を見失ってはいけない。本稿の目的は「社会学の限界を乗り越えて、社会問題を発見すること」であり、社会学を非難することではない。

社会学の泡を暴くのに都合のいいデータを効率的に発見する機器」を開発したとしても、それは社会学に反発しただけであり、社会問題の発見・解決にはつながらない。(まあ、社会学を社会問題と捉えれば、「社会問題の発見」につながるといえなくもないが)

都合のいいデータを集めたいという恣意性が、社会の姿の客観的な観測を邪魔するのである。

あくまでも、「泡を観測しうるデバイス」を作るに留め、泡の発見効率を意図的に上げ下げしてはならない。

 

2-3. 性犯罪とその冤罪の客観的な観測

1-4-2節にも示した通り、性犯罪という「証拠の極めて得にくい犯罪」に対する取り締まりを強化するよう社会学が迫った結果、「証拠がなくても逮捕、起訴」という事態を生み出し、冤罪という別の問題が発生してしまった。まさに「無理が通れば道理引っ込む」である。

あまりにも悲しいことに、社会学はこの問題を、「誰もが納得する形」で解決することは現状できていない。そして自己矛盾を避けるため、黙って女性の人権を男性の人権に優先させている感すらある。また、女性による男性への性犯罪や同性間での性犯罪について、社会学が何をしてくれたのかについても大きく疑問が残る。(ある程度数が多くないと動けないのであれば、「多数派は悪!少数派に配慮しろ!」に矛盾するではないか。)

こういった不信感から、男性は女性が被害を受けていても助けてあげることはできなくなってしまうし、女性は男性の無関心さに苛立つこととなる。

 

この現状は性犯罪や冤罪に「証拠」がないことを発端として生まれている。

それならば、性犯罪や冤罪の証拠を集めやすい環境を整えればよいのである。

その証拠を集めるためのデバイスとして、マイコン機器が大きく役立つのではないだろうか。

要は、監視カメラ搭載のマイコン機器を腕に常備するなどすれば、性犯罪の証拠も冤罪の証拠も集めることができるではないか、ということである。

 

このようにして得られるデータは、新たな社会問題の発見に役立つとともに、
「現状の社会学に対して猛省を促すための材料」ともなり得る。このデータをもとに、今後の社会学が「証拠がなくても対処すべき」という発想から「証拠がないのなら証拠を集める方法を考えるべき」という方向に転換し、さらに「社会学自身が、女性が正義で男性が悪というジェンダーバイアス(ステレオタイプ)に侵されていた」ということに気が付いてくれれば何よりである。

 

 2-4. 想定される問題とその解決

しかし、監視カメラを腕につけて電車に乗るというのは、相当な抵抗があるだろう。

特に男性は、女性に盗撮と言われてしまえば終わりである。

また、毎日防犯カメラを付けて電車に乗るのは面倒なことではあるだろうし、コストもバカにならない。

その他、電源の問題や、いざ冤罪に遭って警察に連行されそうになった時、どうやって助けることができるかについても、考える必要がある。

問題が山積みな中、盗撮といわれないための方法を2つ思いつくことができた。ここではそのうちの一つについて説明する。

2-4-1. 映像配信技術の確立

監視カメラが撮影した映像を、即座にインターネットで公開してしまえば、監視カメラが性的な映像の収録に使われているか否かが誰にでもわかるようになる。

しかし、何も工夫をせずにサーバに映像をリアルタイムでアップロードし続けるようなことをすれば、通信データ量が跳ね上がってしまう。したがって、まずは映像のデータサイズを小さくすることを考えなくてはいけない。つまり、単位時間当たりのフレーム数を落としたり、各コマの画素数やビット深度も落とす必要がある。

通信制限を受け、低速回線に切り替わった状況でも、問題なくリアルタイムで映像を配信できるのがベストだろう。